夕暮れどきになると、屋上は人が少なくなる。
高い塔のようなつくりの湖城は、上に行くと風が強いので、夜はあまり人がこないのだ。
開けた土地の少ないこの城で、ここが唯一、何も気にせずに棍を振り回せるところ。
目を閉じ、心に水面を浮かべる。
かたちは真円に近く、波ひとつ、移りこむ雲影ひとつなく。
同じく真円の月が煌々と浮かび、風はなく、底までひっそりと澄み渡った、静寂の水面。
心が揺れれば水面も揺れ、心身に翳りがあれば雲がかかる。
ここのところ特に、それがなくなるまでに時間がかかった。
リカに許されている個人としての時間は、そう多くない。
ひどいときは、それが瞑想だけで終わってしまうこともあった。
それでも、リカはこの作業を欠かすことはなかった。
むしろ、繁忙なときにこそ、暇を見つけては行った。
心こそすべての源であり、一切の些事を取り払った状態に心を戻す。
更地になった心に、新たな感情や、思考を積み重ねる。
師が教えてくれた、武道の心得の基礎の基礎だが、この作業があったからこそ、自分はどうにかここまでこれたと、リカはそう思っていた。
びょうびょうと鳴る風に、水面が持っていかれる。
集中しようと意識するほど、漣はあとからあとから立っていく。
ゆったりと呼吸を繰り返しながら、焦らない、と言い聞かせていた。
「ねえあんた」
なので、背後から声がかかったときには、飛び上がらんばかりに驚いたのだ。
振り向いた先には、横殴りの風に栗色の髪を遊ばせて、入り口の屋根に腰掛けた少年がいた。
「な、…んだ、ルックか」
「なんだとはご挨拶だね」
「いや、驚いたから…。 いつからいた?」
「ずっと」
君が入ってくる前からずっといた、とそっけなく返される。
ということは、彼はリカの瞑想に入る一部始終をずっと見ていたことになる。
リカとしては、風の音が強かったとはいえ、人の気配に気がつかなかった自分と、あまり他人に見られたくない作業だったので、少し気まずい。
「つーか、いるならいるって言えよ」
「フン…こっちに気がつかなかった、アンタの責任だね」
にべもない。
いつもなら、そのまま終了してしまう会話だが、今日は珍しくルックの方が口を開いた。
「…で? 君、そんなところに長いことボーっと突っ立って、何してたの」
「えー…瞑想」
「…ふうん。 ………」
風が少し、弱まった。 リカはルックの方に二、三歩歩み寄る。
含みのある沈黙に、リカは首をかしげた。
「何?」
「……別に。 ………身投げでも考えてるのかと思った」
「……ぶはっ」
ルックの答えに、リカはつい噴き出した。
途端に、ルックがぎろり、とリカを睨む。
秀麗な容貌に零下のまなざしは、年下とはいえちょっとした迫力だ。
悪い、と苦笑して、リカはかぶりを振った。
「こんなところから身投げする勇気はないな」
「だろうね。 君、けっこうヘタレだし」
「ひどいなー。 これでも体張ってるのに」
冗談めかして言うと、これはまた、ルックに鼻で笑われる。
戦いに身を置いている以上、体を張っているのは皆同じことだ。
でも、とリカは改めて、自分よりも身体ごと上にある緑色の衣を見上げる。
「心配してくれたんだ」
「…そんなわけないだろ。 うぬぼれもほどほどにしたら」
「はは、じゃあそう思うだけにしとく」
「………バカじゃないの」
突き放すように言ったルックだが、その場から動こうとはしない。
そんな様子を見て、リカは嬉しくも申し訳ない、という気分になった。
たくさんの人が、リカに気を遣ってくれている。
気を遣わせてしまう己が不甲斐なく、けれどその優しい仲間たちの存在が、この上なく得がたいものに感じるのだ。
「ルック」
「……何さ」
「心配ついでに、もうひとつ頼んでもいいか」
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
「……………さっさと言いなよ」
持久戦はリカの勝利だった。
アンタホントにイライラする、と、ルックが盛大に顔をしかめた。
「これ、少し和らげることってできるか?」
空を指すリカの指を見て、すぐに何のことか理解し、ルックは不承不承、といった様子でうなずいた。
「仕方ないね」
ルックが腕を一振りすると、トラン湖の上を吹き荒れていた風が不意に止む。
それまで周囲を包んでいた音が一切止んで、耳に痛いほどの静寂が訪れる。
「それじゃ、僕は寝るから」
「ああ。 ありがとうな」
「…………別に」
それだけ言うと、ルックの姿は風に掻き消えた。
折りしも空には満月。
凪いだトラン湖に映りこむ月も、そのまったき姿を欠くことなく輝いていた。
先ほどよりも、心の水面もずいぶん穏やかになっている。
慈しみは月の光のように、リカの心の雲を払い、漣を溶かしていく。
誰もいなくなった屋上で、ありがとう、と、リカはひっそりと呟いた。