しっかりと掴んだはずの指先が、つるっとすべる。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
痛々しい音を立てて、紺色のマグカップは粉々に砕けた。
「孟起!?」
子竜がリビングから飛んできた。
今日は子竜が料理を作る日、だから俺が片づけをする日だ。
家事に不慣れな俺に任せるのを心配する子竜を押し切って、臨んだというのに。
「大丈夫か?」
「子竜…」
床を一瞥すると、子竜はああ…と納得したようだ。
とりあえず動くなよ、と言い置いて、たぶんほうきとちりとりを持ちに行ったのだろう、いったんリビングに消える。
俺は突っ立ったまま凹んだ。 自分の不器用さに。
なによりも、この割れたマグカップは。
子竜が俺と出会った頃、いや、きっともっとずっと前から、愛用していたらしいものだった。
「すまん」
ほうきとちりとりと、それから二人分のスリッパ(俺も子竜も部屋の中でスリッパを履く習慣がない)を持ってきた子竜に、真っ先に謝る。
「いいって。 それより、怪我は」
「俺は大丈夫だ…けど、このカップ」
お前がずっと、使っていたものだった。
俺はそれをずっと知っていた。
誰が来ても、そのカップだけは子竜の専用だったのだ。
それを指摘すると、子竜は俺を見上げて、ふっと目を細めて笑う。
「よく見てるなあ」
「……そりゃ…」
「まあ、確かに古馴染みだったから」
ほうきはひとつしかないので、俺は大きな破片を拾ってはちりとりに入れる。
子竜は念のためにと、部屋の隅までほうきをかけている。
長いこと使ってたしな、と、子竜が返した言葉に、やっぱり、と俺はますます落ち込んだ。
俺より長い付き合いなのだ、あのカップは。 思い入れもひとしおに違いないのに。
それを俺は。 なんというふつつか。
「そんなに気にするなよ」
「でも」
「形あるものはいつか壊れる。 そうでなければ、いつかは使われなくなる」
きっと御役御免だったんだよ、こいつは、と、慰めてくれているのだろうが、こいつ、などという親しみの篭った呼称では逆効果だ。
どうやって詫びようか。
「また買えばいいじゃないか」
「…じゃあ、俺に買わせてくれ」
「だから………まあ、いいか」
ただし、割り勘。
子竜は仕方ない、という風に苦笑して、そこだけは譲らなかった。
割り勘ではつりあわないだろうに、と思っていた俺の疑問は、その後すぐに、代わりのマグカップを買いに出たことで解けた。
「いいタイミングだろう」
ずっと前から欲しい欲しいと思い続けていたのだそうだ。
普通のものよりもずっと分厚く作られたマグカップ。
装飾は一切なく、丸みがあって優しく、けれど素材が厚いからか、どこかマニッシュで、いかにも子竜が好みそうなデザインだった。
「新生活祝い、ということで」
晴れて春から新社会人の俺は、子竜と一緒に2DKのマンションに住むことにした。
家賃は俺の給料だけでは捻出の難しい額だが、二人だから難なく払える。
卒業に向けた準備もそこそこに引っ越して、ようやく落ち着いてきた矢先の今日なのだ。
色は8色。 俺は紺色、子竜はオレンジを選んだ。
「これでもよかったんだけど」
そういって子竜が指差したのは、今、巷で人気の「ハートが浮き出るマグカップ」。
…そんなもの、男二人で使ってみろ。
店から出て、駐車場までの少しの距離。
俺が子竜を見るのと、子竜が俺を見たのは同時だった。
…いざとなると、恥ずかしいが。
やっぱり、おなじことを考えていたんだな。
空いた方の手はつないだ。
もう一方の手には――互いへと贈ったマグカップ。