『――俺だ。 ………仕事が終わって、疲れていなければ、連絡をくれ』
簡潔な言葉が、聞きなれた、けれど聞き飽きない、少しハスキーな声で、耳に流れてきた。
メールで残せばいいのに、と、いつも思うのだが、ちまちまと指の先で打つのが面倒なのだそうだ。 確かに、彼はeメールを打つのが致命的なまでに遅い。
昼夜逆転業の仕事の疲れなら、これ以上ないほど溜まっている。 今すぐにでもベッドに倒れこんでしまいたいくらいだ。
だが、どんなに疲れていても、彼の声を聴きたい欲求だけは止めることができない。
左近は迷わずリダイアルのボタンを押した。
数回のコール。
『―――左近?』
「ああ…三成さん。 すみません、遅くなっちまって」
『いや、いい…仕事だろう。 疲れているところ、すまない』
「いえ、大丈夫ですよ。 どうしたんです?」
『その……』
そこでしばらく、会話は途切れた。
「……三成さん?」
『…その…今日も、行っていいか? 左近の部屋』
「ああ…」
最近、三成がよく左近の部屋に来たがる。
来て、何かするというわけではないのだ。
ただ、一緒にテレビを見たり、新聞を読んだり、片方が夕食を作ったり、まともな会話すらないこともある。
そして、必ず三成は左近の部屋に泊まっていく。
思い出して、左近は少しだけ目を細めた。
「―――いいですよ、じゃあ、あと20分くらいで戻りますから」
『わかった。 そのくらいに着くようにする』
左近と三成の家は、そう離れているわけでもない。
歩いても、10分もあれば着いてしまう。
それじゃあ、と言って、電話を切ろうとした左近に、三成が追うように言った。
『…あと、話したいことがある。 ――それだけ、覚えておいてくれ』
電話を終えた後、左近は低く、ため息を漏らした。
三成が来ることは、何も問題はないのだ。 そう、三成に問題があるわけではない。
―――ただ。
ある日、いつものように眠ってしまった三成を布団へ転がそうと近づいたとき。
その寝顔の思いがけない幼さに、不意に心が揺れたのだ。
それは、いままで左近の生きてきた中に、覚えのあるゆらぎだった。
名前がわかれば、なんということもない、人にあって当然の感情の芽生え。
ただ、それを抱く対象が、必ず女性だったというだけの話。
それ以来、左近は人知れず、ささやかな懊悩を繰り返していた。
三成は左近よりも一回り以上年下だ。 それと、美形ではあるが男だ。
自分にはそういう趣味はないと、思っていたのに、回数を重ねるごとに、眠っている三成に触れてみたい欲求は膨らむばかり。
一度、こらえられずに冗談にして言ってみた。
「それにしても、三成さん。 あんた、きれいな顔してますね」
「――なんだ急に」
「いやあ…いつも寝てるとき、可愛い顔してるから」
「………」
「きれい」や「可愛い」はあまり嬉しくないらしい、三成は少し不満げだ。
構わず左近は片頬をあげて笑う。
「あんまり無防備に寝てると、狼が食っちまいますよ」
おどけて口をあけ、爪を剥く仕草をすると、三成はフン、と鼻で笑った。
それだけだった。
それからも、三成は何も変わらず左近の隣の布団で寝ている。
わかっていないのか、それとも了承のつもりなのか…あるいは、挑発されているのか。
最後はないとしても、左近としては生殺しが続いて、正直辛い。
隠し通すのも、そろそろ限界だ。
最近では、おちおち触れることもできないでいる。
三成も不審がるだろう。
それでも、左近はその一歩を踏み出せずにいた。
当然のように部屋にいて、当然のように布団があり、当然のようにそこで寝起きする。
当然のように、彼がそこにいるためのスペースがあるのに。
一歩を踏み出せば、そのすべてを壊しかねないのだ。
アクセルを緩めた目線の先には、夜間感応式の信号機。
あと数時間もすれば信号が切り替わるだろうが、今は黄色い灯火が点滅している。
――――黄色の灯火の点滅は、『周囲に気をつけながら、進んでもよい』。
「………進んでも、よい、か…」
なんて曖昧で無責任な言葉だろう。
せめて進めと言ってくれたなら、誰かのせいにもできたろうに。
……いや。
「……いい加減、覚悟しろよ、俺」
話があると、三成が言った。
何の気なしにそのような言葉を使う彼ではない。
ならば、自分も話そうか。
自らの内側を甘く苛む、彼にまつわる感情のすべてを。
夜明け前、日の出まであと数刻。
三成を出迎えるために、左近は車のアクセルを踏み込んだ。