とある故人曰く「所謂『受キャラ』には書き手のヰタ・セクスアリスが潜んでいる」とな。
ヰタ・セクスアリスをどう訳すかってこともあるんですけど、なんというか…性的あるいは性愛体験に対するそのひとの哲学的視点とでもいうのか。
そういう観点からあらためてわたしが書くみぎがわのひとを振り返ってみると、そういやどいつもこいつもけっこう積極的にひだりがわの人が好きだよなあと思う。
矢印による比較をあえて行うとするのであれば、みぎがわの人の矢印はまっすぐで強い。 ひだりがわの人のほうが若干屈折していてそのぶん粘着質というか…印象としてはやわいけどややこしいというか…。
うえの説を前提として考えると、わたしは割合、好きになったら一途なタイプってことですかねえ。 あ、そうかもね。
じゃあ逆に言うと、妄想のあげくひだりがわにおさまる人は書き手の何を反映しているのだろう。 理想の相手像なのかな。
あともういっこ、だれしもひいきのキャラクターっていると思うんだけど、そのひとが妄想のあげくどっちがわにおさまるかっていうのも興味深い部分があるというか…。
趙雲が好きなひとでも、趙雲がひだりがわのひととみぎがわのひとといたりして。 むしろどっちでもバッチコーイ☆なひともいたりして。(そういう場合でも、基本スタンス、みたいなものはある気がするしなあ)
性愛という領域は非常に深遠で、それってたかが二次創作でたかがふむけでも、考え出すとたいへんにおもしろそうなところではあるんですよねえ。
ただ議論の土壌がないからどの意見も私見の域を出なくて、また体系的にまとまることによってその実体が明るみに出ることをいやがるような風土もあるわけで、わたしみたいなフィロソフィアのなりそこないみたいなのには、逆にそのあたりがいごこちよかったりしてさ。 なーんつってーなー。
[2回]
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