目にした光景を、ガーランドはにわかには信じられなかった。
燃え盛る炎が左右にわかれ、まるで道を作っているようだ。
その向こうには、その炎を吐いただろう竜が、巨大な身体を横たえている。
死んでいた。
その正面。 ドラゴンに焦点を合わせればぼやけてしまうほど小さな、ただ一人の人間の姿があった。
きらめく剣を携え、彼がゆっくりと振り向く。
「アルトゥロ!」
不機嫌を隠しもしないガーランドの怒号は、この国の騎士ならば誰もが震え上がるものだ。
しかし、目の前の男に限っては通用しない。 案の定、普通に呼ばれたのとなんら変わらない仕草で、アルトゥロと呼ばれた男は振り返った。
「ガーランドか。 どうした」
「どうしたもこうしたもないわ。 貴様、弟子をほっぽりだしおってからに」
アルトゥロと呼ばれるこの男は、この城の剣術指南役だ。 ある日突然ふらりとコーネリアに現れた。 記憶喪失らしく、アルトゥロというのも便宜上の呼び名だった。
故郷も生家の名も知らない彼が唯一持っていたのは、おそるべき剣の腕前だ。 そのとき丁度コーネリアの領内にドラゴンが現れ、近隣の村を荒らすというので困っていた。 それを彼は、たった一人であっさりと退治してみせたのだった。
素性の知れない男に援助をするわけにもいかず、追い出すようなかたちで討伐に向かわせたのには少し良心が痛んだので、亡骸だけでも弔ってやろうと遅れて渓谷に赴いたガーランドが目にしたのは、息絶えたドラゴンと、剣を携え悠然と立つ男の姿。
英雄の出現に王はたいそう喜んだ。 騎士にならぬかという誘いに首を振った男を、ならばと引き止めてこの城の剣術指南に抜擢した。
それ以来、騎士の間でアルトゥロのことは、ガーランドにも匹敵する勇者として知れ渡っている。 アルトゥロという通り名も、その剣技のあざやかさと、彼の唯一の持ち物であった剣のあまりの見事さからついたものだ。 が。
「……」
ガーランドの苦々しい声に、アルトゥロはしばらくきょとんと目を瞬く。 しばらくして、ああ、と、思い出したように手を打った。
「忘れていた」
「……貴様という奴は」
この男を騎士にしなくて本当によかったと、ガーランドは心の底から思っていた。 記憶がないからか知らないが、なんとも物忘れが激しいのである。
そのうえ物怖じしない男だ、さすがに国王にたてつくようなことはないにしろ、振る舞いが奔放すぎて、騎士にはおおよそ向いていない。
国一番の剣の遣い手、騎士の中の騎士、と誉れ高いガーランドに対してさえ、まるで古い友人のように接してくる。 始めのうちこそ言葉遣いに気をつけろだの、勝手に城を出歩くなだの、律儀に注意していたガーランドだが、最近その言い合いが名物になりつつあると知って、なにかいろいろと馬鹿らしくなってしまった。
「半泣きになっておったぞ。 お主に見捨てられたのではと」
「それは悪いことをした。 すぐに戻る」
しれっと言ってのけるアルトゥロは、しかし言と違って悪びれるそぶりなどいっさいみせない。 この飄々とした態度が若い騎士の目には泰然と映るらしい。 態度こそ大きいが人を邪険に扱うようなことはしないし、なにより剣の腕前だけは惚れ惚れするほどなので、結果として指南役としてのアルトゥロの評判は上々なのだった。
やれやれと重くため息をつき、きびすを返したガーランドに、少し遅れてアルトゥロが追いついた。 肩を並べると、アルトゥロは頭ひとつほどガーランドよりも小さい。
ガーランドは並外れて立派な体躯だが、比較を差し引いてもアルトゥロの容貌は一見して剣士には見えなかった。 透けるような薄い青の目に、生え癖があるのかゆるく波打つ美しい銀髪。 くわえて目鼻立ちはすっきりと怜悧で、剣士より詩人だと言われるほうがうなずけるとさえ思う。 失った過去のうちで培われたのだろう強靭な肉体が、その顔の下についていたとしても。
まあ、この面の皮の厚さ(なにしろ滅多に笑いすらしない)と忘れ癖では、詩人になっても三日で廃業だろうが。
「暇なのか?」
「……は?」
なんの脈絡もなく訊かれて、ガーランドは間抜けな声を返した。
薄青の目は、やはり何も考えていなそうにガーランドを見上げている。
「私を探しに来るくらいなのだ。 暇なのではないのか?」
「…貴様な」
純粋な疑問だったのだろう。 しかし、その素朴さがかえってガーランドの神経を逆なでする。
ガーランドは、暇でアルトゥロを探していたわけではない。 泣きつかれたのだ。
アルトゥロの行動範囲は広い。 いったんどこかに行ってしまうと見つけ出すのに苦労するのだが、どういうわけなのか、ガーランドはアルトゥロを見つけるのがうまかった。 本人が意識してやっているわけではないのに、他の人間が探すよりも早く見つかる。 複数で探しに行っても、見つけて帰るのはいつもガーランドだった。
統計的な理由から「アルトゥロ探しはガーランド」という、ガーランドとしては不本意なジンクスがついてしまって、アルトゥロを探している人間はたいていガーランドに協力を頼むのだった。
「暇なわけがあるか。 貴様が軽はずみに出歩くから、わざわざ探しに来てやったものを」
「そうだったのか。 しかし、何故お前が」
「知るか。 他の奴に訊け」
お前を探すのは私が一番巧い、などと、口に出せるわけがない。 国一番の騎士がなんという陳腐な自慢だろう。 むしろ不名誉だ。
「まったく…私は忙しいのだぞ」
鬱憤を少しずつ晴らすようにぶつぶつと言う。 なんの気なしに言った愚痴だったが、それにアルトゥロが妙な反応をした。 驚いたように目をしばたたき、ガーランドの横顔をまじまじと見たのだ。
思わず、といった風に立ち止まったアルトゥロの様子は、ただの愚痴を聞いただけにしてはおかしい。
「…どうした」
「あ…いや」
数歩先で振り返ったガーランドに対して、アルトゥロは珍しく逡巡するように目をそらした。 首をかしげたガーランドに、なんでもないと首を振ってみせる。
「…お前の一人称が、な」
「は?」
「前から、『私』だったか…と思って」
何を言っている、とガーランドは呆れた。 たかが一人称ごときでそこまで驚くこともないだろうに。 それに、ガーランドは昔から一人称は「私」だ。 騎士になる前は「俺」と言っていたこともあったが、改めた。 この男の前では、「私」以外は使っていない。
「ついに最近のことも忘れだしたか」
「そうかもしれん」
憎まれ口は軽く流された。 なぜあんな反応をしたのかは気になったが、尋ねてもおそらくはっきりとした答えは返ってこないだろう。 なにしろ覚えていないらしいのだから。
アルトゥロはまだ何かぶつぶつと言っている。
「『儂』」
「…は?」
「……とは、言わない…か」
「…さっきからなんなのだ、貴様」
ほとんど独り言のようだが、一人称のことにこだわっているらしい。 もともとあまり気の長いほうではないガーランドは、焦れてアルトゥロに向き直った。
それが視界に入っていないはずはないだろうに、まるで無視して腑に落ちなそうに小さく呟くアルトゥロだが、やがてあきらめたようにため息をついた。
「…いい、なんでもない」
「…なんでもなさそうだから訊いておるのだろうが」
「気にするな。 昔の…いや、別の人間の話だ」
昔の、という言葉に自分でも違和感を覚えたらしい。 言い直したアルトゥロは、しかしそれ以上その話題を続けるつもりはないようだった。
違和感が移ってしまったのか、ガーランドまでなんとなく座りが悪いが、アルトゥロを見ても先ほどのようなあいまいな表情は浮かべていない。
得体の知れない奴め、と悪態をついて、ガーランドはいまごろべそをかいているかもしれない彼の弟子のところへと、アルトゥロをひきずっていったのだった。