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ちとにっき

永遠に 生きるがごとく 夢をみる !

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たまには真面目な話を

わたしの書きたいものってなんなんだろうな…とか考えてみました。

結論:非日常の中の日常。

常態でない状態のなかにある常態、みたいな…
三国志も幻水も、自分のいる世界とは違う世界という意味で、日常的ではあり得ないんですけど、その非日常的な世界に暮らす人たちの日常的なしぐさを書きたいとか。
わたしたちの身の回りには、鎧で武装していたり紋章で魔法使ったりする人はいませんから、そういう意味で彼らの存在そのものも非日常的です。
非日常の中にまぎれこんだ日常、日常の中に紛れ込んだ非日常、ふたつは二律背反的に扱われますから決して同一になることはありません。 どちらに分類されるかはかなり流動的ですが。
溶け合うことのないものがねじ込まれている、その状況にわたしたちは面白味を感じたり、新鮮味を感じたりします。 理解の範疇を超えると、嫌悪したり拒絶したりします。
書いてるわたしは日常世界の住人ですが、非日常的なものを描くことで日常から脱却する。 非日常的なものは非日常で構成されているはずですが、そこに日常が交じる。 そうやってこう、非日常と日常をいったりきたりするのが楽しいんだな…と思いました。

日常ってな、えてして退屈なものですが、非日常的な人たちが演じる日常というのは、あくまで非日常の中で行われている「ごっこ遊び」のようなものなので、それは全体として非日常のまま保たれている。
ほんとうに日常になってしまったら、面白くないんです、きっと。
そうすると今度は、「非日常的な人たち」の演じる「日常の中の非日常」、みたいなものも書きたくなったりとか。
ただ人間は日常に属する存在なんだと思います、日常の側から、非日常を探したり見つけたり観察したりしている。 で、理解とか慣れるとかいう作業は、非日常を日常に取り込む作業で。 新鮮味がなくなるのはそういうことだろうな、とか。
まあ人間には忘却っていう素晴らしいシステムがあるんで、死んだ魚みたいに腐らないようにはなってると思いますけど。


なんだかぐだぐだ書いてたら話が右往左往しだしたので、追記におろします…。

で、あと好みの話とか。

たとえばこう…二次創作、とくにお話とかだと顕著に出ますけど、表現する側によって、表現される題材が異なって描かれるのは本当に面白いなあ…とか。
趙雲の肌が白いとか黒いとか、馬超の睫が濃いとか薄いとか、ぼんが美男子かどうかとか、そういうのは、見た人の信念の問題なんですよね…(あ、えと、信念っていうのは用語で、客観的に正しい答えが存在して、見解の統一が可能な命題のことです…)
たとえば二次創作ならかならずオリジナルが存在するわけですけど、そこにいる趙雲が実際どのくらい色白かってのは、比較することによってわかります、そしてそれが事実として扱われる。
信念と欲求ってのは別物で、信念には客観的な正しさがある程度存在しますが、欲求に関してはまったく基準が存在しない。 だから趙雲を浅黒く書きたくても、色白に書きたくても、それはその人の自由。
面白いのはそこでこう、その欲求による好き嫌いが発生することだな、とか…。
まあ倫理と違うんで、道徳的事実とか客観性とかは問題になりませんけど、それでもどこかで、この人はこう書くべき、みたいなものが存在する気がします。
わたしは事実・信念・欲求は近づくべきで、二次創作は公式になるべく忠実であるべき、と思っています。 この、「べき」が曲者なんだな…。
いきなりメタ倫理の話題でアレなんですが、わたしは反実在論支持です。 誰もが同じ欲求を持つ、あるいは「こうするべきだ」と思う客観的道徳的事実は存在し得ないと思っている。 だからわたしが「べきだ」と思っても、それで他人を説得できるような客観性はどこにもない。 ブラックバーンに近いかな……わたしの「二次創作は公式になるべく忠実であるべき」という命法は、オリジナルの意向とまったくかけ離れた二次創作を見たときに、オリジナルの作者はきっととまどったり、場合によっては不快に思うだろう、という立場からの主張でしかないな、と思ったり。
まあメタ倫理の常で、だからどうだって言われると、いや、そんだけ、なんですが(ははは!)
規範倫理に戻ってこれなくなるから困る。 あ、好きなだけ困ってろ、って感じですか…そうですよね…

だからって各々が書きたいように書いていいかって言われると、それもなんか違うような気がするんだよなあ…反実在論支持なんですけど、なんていうか…絶対者とかエスとか、プラトンのイデアとか、カントの「物自体」みたいなものをずっと探しています。
でも最近は仏教に影響されて、それはどこか別の場所にあるんじゃなくて、結局自分の中にあるもんなんじゃないかっていう気もします。 それでもなんか見つけようとして二元論からどうしても脱却できない自分がもどかしい。
でもあれなんだなあ…仏教はそこらへん来ると「仏法は無量無辺。おまえのもの足りようをもの足りさすものであるわけがない」とこうなるわけだ……この飢餓感をどうしたらいいんだろうかなあ…。

とか思いながら、きっと飢餓を埋めるためにお話を書いてるんですよきっと。 めんどうくせえ野郎ですね…。

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