で、あと好みの話とか。
たとえばこう…二次創作、とくにお話とかだと顕著に出ますけど、表現する側によって、表現される題材が異なって描かれるのは本当に面白いなあ…とか。
趙雲の肌が白いとか黒いとか、馬超の睫が濃いとか薄いとか、ぼんが美男子かどうかとか、そういうのは、見た人の信念の問題なんですよね…(あ、えと、信念っていうのは用語で、客観的に正しい答えが存在して、見解の統一が可能な命題のことです…)
たとえば二次創作ならかならずオリジナルが存在するわけですけど、そこにいる趙雲が実際どのくらい色白かってのは、比較することによってわかります、そしてそれが事実として扱われる。
信念と欲求ってのは別物で、信念には客観的な正しさがある程度存在しますが、欲求に関してはまったく基準が存在しない。 だから趙雲を浅黒く書きたくても、色白に書きたくても、それはその人の自由。
面白いのはそこでこう、その欲求による好き嫌いが発生することだな、とか…。
まあ倫理と違うんで、道徳的事実とか客観性とかは問題になりませんけど、それでもどこかで、この人はこう書くべき、みたいなものが存在する気がします。
わたしは事実・信念・欲求は近づくべきで、二次創作は公式になるべく忠実であるべき、と思っています。 この、「べき」が曲者なんだな…。
いきなりメタ倫理の話題でアレなんですが、わたしは反実在論支持です。 誰もが同じ欲求を持つ、あるいは「こうするべきだ」と思う客観的道徳的事実は存在し得ないと思っている。 だからわたしが「べきだ」と思っても、それで他人を説得できるような客観性はどこにもない。 ブラックバーンに近いかな……わたしの「二次創作は公式になるべく忠実であるべき」という命法は、オリジナルの意向とまったくかけ離れた二次創作を見たときに、オリジナルの作者はきっととまどったり、場合によっては不快に思うだろう、という立場からの主張でしかないな、と思ったり。
まあメタ倫理の常で、だからどうだって言われると、いや、そんだけ、なんですが(ははは!)
規範倫理に戻ってこれなくなるから困る。 あ、好きなだけ困ってろ、って感じですか…そうですよね…
だからって各々が書きたいように書いていいかって言われると、それもなんか違うような気がするんだよなあ…反実在論支持なんですけど、なんていうか…絶対者とかエスとか、プラトンのイデアとか、カントの「物自体」みたいなものをずっと探しています。
でも最近は仏教に影響されて、それはどこか別の場所にあるんじゃなくて、結局自分の中にあるもんなんじゃないかっていう気もします。 それでもなんか見つけようとして二元論からどうしても脱却できない自分がもどかしい。
でもあれなんだなあ…仏教はそこらへん来ると「仏法は無量無辺。おまえのもの足りようをもの足りさすものであるわけがない」とこうなるわけだ……この飢餓感をどうしたらいいんだろうかなあ…。
とか思いながら、きっと飢餓を埋めるためにお話を書いてるんですよきっと。 めんどうくせえ野郎ですね…。