声にならない悲鳴を上げたのは、馬岱のほうだった。
馬超は驚きこそしたが、そこまで感情が大きく揺れ動いたわけではなかった。
ただ、ああもったいないな、とは思った。
きれいだったのに、と。
「もう……もう、なんということですか…将軍……!!」
「…ん?」
もうひとつ馬岱が報われないな、と馬超が思ったのは、悲鳴を上げさせた当の本人が、そのことにぜんぜん頓着していないことであった。
驚愕と悲嘆のあまりに震える馬岱の声に、しかしその抑揚が秘めたものにまったく気づいていないのか、趙雲は何だ、と首をかしげた。
その動きにあわせて、いつもなら背中をすべるはずの長い黒い髪が。
「御髪をどこにお忘れになったんですかぁ…っ…!!」
「ああ、これか」
ばっさりと、半分くらいの長さになっていた。
肩甲骨を覆うか、というところまで短くなってしまった趙雲の髪に、馬岱があああ…と悲痛な声を上げながらすがりつく。
そして、
「しかも、めっちゃくちゃ痛んでる……!!」
「戦の最中に切って、そのままだからなあ」
さらに悲鳴を上げた。
後ろにいた残党に気がつかず髪を握られて、すんでのところで切り落としたらしい。
確かに、剃刀でもない刀で切られたのだ、毛先はほうぼうにはねて痛み放題、おまけに趙雲自身はそんなに自分の髪に愛着がないときている。
しかし、趙雲自身がそれでよくとも、ことはそれではすまないのだ。
「どこの馬の骨とも知れない輩がこの御髪をわしづかみですと」
「確かにわしづかみではあったかもしれないが」
「……許すまじ……この馬岱が成敗してくれる……!!」
「岱、落ち着け。 もう賊は討ったから空回りするぞ」
傍らの帯刀を引っつかんで、今にも暴れに行きそうな馬岱の首根っこを、馬超がはっしと引っつかんだ。
「兄上! 離してください! 岱は趙将軍の御髪の仇をー!!」
「大丈夫だ! 子竜の髪は子竜自身が丁重に供養したから!」
「いや、そんなことはいちいちしてないんだが…」
一歩間違えれば髪どころか首が離れていたかもしれないのだが、そのことはそれとしてとりあえず置かれているらしい。
「馬岱殿、大丈夫だ。 また伸びるし」
「そういう問題ではありません!!
だいたいですね! そもそも将軍はご自分の御髪に対して愛情がなさすぎます!」
「はあ…」
趙雲の助け舟は裏目にでて、今度は趙雲へと馬岱の舌鋒が向いた。
趙雲の返事に精彩がないのは当たり前である。 髪が綺麗だから武芸がうまくなるとか、そういうことはない。
要領を得ない趙雲の受け答えに、馬岱の怒りはさらに募る。
「巷の女性方が自分の髪にどれだけ腐心していると思っていらっしゃるんですか!」
「いや、馬岱殿、私は女ではないのだが」
「せっかくそんな綺麗な御髪をお持ちなのにもったいないでしょう!」
「いやあの、」
「いいですか! 御髪には毎日櫛を通してお休みになってください! 朝も!」
「いや、……うん」
「今後勝手に御髪を切るような真似は、絶・対・に、なさらないようにしてくださいね!!」
「いや、…………うん、わかった、申し訳ない」
「わかればよろしい」
趙雲が不憫だ、と馬超は思ったが、今の馬岱に反論するほうが面倒だ。
何がなにやらわからないが、とりあえず謝ってみた趙雲に、馬岱はようやく納得したように鼻を鳴らした。
「では将軍、湯殿に行きましょう」
「は?」
「は?ではなくて。 痛んでいるところとか、揃えて差し上げますから」
「え、いや馬岱殿、………、お願いします」
あわれ趙雲、合掌。
半ばひきずられるようにしていく趙雲を、馬超は薄笑いを浮かべて見送った。